風の王子の冒険譚4 〜 帰還 〜





日がかなり高くなってから、ようやく目覚めたパックとフラットレイは、その日1日ダリで休養を取って、翌日北ゲートを無事通過した。
じいさんからご馳走になったコーヒーがうまかった、というのがパックの感想である。
明日はいよいよ青の王都ブルメシアに到着するというのに、故郷に近づくにつれてフラットレイの口数が次第に少なくなり、ひどくふさぎこんだ表情になる。
「どうした、フラットレイ?」
野営の準備の後、パックが堪り兼ねて訊ねた。
「…………」
何でもありません、と首を横に振るフラットレイに、パックは堪忍袋の緒が切れたように怒りの声を上げる。
「何でもない訳ないだろ?! 主君は己に忠誠を捧げる家臣に対し、それに応える責任と義務を負っている。ましてやブルメシア行きを提案したのは、この俺だ!」
パックはフラットレイを真正面から睨め付けると、声を落としてこう言った。
「…なぁフラットレイ。おまえがそんな辛そうな顔をしているのに、俺が平気でおられる筈ないだろう?」
しゅん、とうなだれる王子に、青年はわずか微苦笑を浮かべた。
フラットレイはうつむいて、風に揺れる小さな薄紫の野の花を見つめたまま、口を開いた。
「―――怖いのです。ブルメシアに帰るのが」
「怖い?」
あまたの魔物と対峙し一歩も引く事を知らぬ、勇猛果敢な竜騎士の口からそのような言葉を聞くとは予想だにしなかったパックが、心底意外そうな面持ちをする。
「もしブルメシアに帰っても、何も過去を思い出せぬとしたら…。
もし私を知る者、私を迎えてくれる者が、誰1人とておらぬとしたなら…。
いいえ、思い出せぬのならまだいい!
もし己が槍の――竜の力の意味を、そこに見い出す事、叶わぬとしたなら…!」
竜の力の意味―――竜騎士としての存在理由。
フラットレイは傍らに置かれた槍を、きつく握りしめた。
「もしも竜騎士である事失ったなら、私は名すら持たぬ、ただの空っぽの器になり果ててしまう!」
それは血を吐くような慟哭の叫びだった。
「現実から目を逸らし、遠く異国の地で故国を想っている限り、私は竜騎士でいられる。
この虚無の闇に幾度も引きずり込まれるような、不安と孤独!
情けない奴と言われても構わない。
竜騎士である事への誇り、ただその一事に…己に残されたただ1つの記憶に、すがるように今日まで生きて来ました」
護るべき祖国に背を向け、竜騎士の青年は、自分自身を捜して世界中を彷徨い続ける。
帽子の陰に隠れてフラットレイの表情は、パックからは見えない。
身体に残るむごい傷跡同様、彼の心も傷を負ったままなのだと、どうして見抜けなかったのか。
パックは己が不明に唇を噛んだ。
「―――暗いぞ、おまえ」
ことさら冷たくパックは言った。
「もしやおまえ、自分を…例えば、世継ぎの王子弑逆未遂のような大罪を犯して、国を追放されたとか、そんな風に考えてないか?」
「…やはり、私が何かしたのですか?」
故国を出た理由を、ずっとあれこれ考え悩んでいた青年が、低い声で訊ねる。うむ、とパックが、恐ろしく険しい表情でフラットレイを見上げた。
「おまえはかつて俺のお目付役で、同時に槍の指南役でもあった。おまえ、こと槍術については人格変わるからな。訓練で何度、マジに死にそうな目に遭わされたか数え切れぬ」
「…………」
本気の恨みの籠もった目つきで睨むパックの思わぬ意趣返しに、最初は唖然としていたフラットレイが、やがてぷっと吹き出してしまう。
どんな事をしたかは知らぬが、自分はよほど幼い王子から恨まれていたらしい。
「ふん、やっと笑ったな。ではもう1つ、こんな風に考えた事はないか?
例えばブルメシアに帰ったなら、綺麗な恋人と、ブルメシア最強の竜騎士としての輝かしい栄誉が、おまえを待っている、と。
あるいは、おまえは広い屋敷と領地を持つ主で、故郷で安寧とした生活を送っていた、とか。…俺は良くわからぬが、世の民はそういったものを望むそうだから」
パックの話には一抹の事実が織り交ぜられているが、フラットレイはわずか微苦笑を浮かべただけだった。
「確かに今のおまえは何も持たぬが、俺が例えて述べたものだって、おまえならば望みさえすればいつか手に入る。…稀代の極悪人としてお尋ね者になる事さえ。
何もないからこそ見つけられる、ありとあらゆる可能性を、おまえは手にしているではないか?
だがおまえは、再び竜騎士である事を選んだ。
別の生を生きる事も可能であったにもかかわらず、おまえが幼い頃、竜騎士を志して青の王都へとやって来たのと同じように。
選択は既に成されている。ならばこれ以上、何を求めて思い悩む必要があるというのだ?」
フラットレイの蒼の瞳が、大きく見開かれた。
パックは真摯な瞳で、じっと彼を見据えている。
「いいか、考えてもみろ。俺なぞこの世に生まれ落ちた瞬間から、未来が定められている。
俺は己の成すべき事を放棄するつもりはない。が、望むままの自由な生を生きる事が出来るおまえ達が、少しうらやましいとも思うぞ」
パックはそう言って、小さく肩をすくめる。
この小さな王子が背負うべきものは、あまりに大きく、あまりに重い。
誰1人として肩代わりすること叶わぬ重荷を背負った、孤独な王の道。
だが彼は決して、そこから目を逸らしたり、逃げたりなどしないと、強い光を湛えた瞳がそう言っている。
「トレノでおまえを見つけた時、俺は風の精霊に“フラットレイを捕まえて”と願った。
たとえおまえが覚えてなくとも、風はおまえの捜し物――おまえが何者であるか、誰よりも良く知っている」
フラットレイの抱えてる苦しみは、パックには想像もつかない。
ほんの少しでもいい、彼を長い苦しみの迷宮から救い出す手助けが出来るなら…。
パックは王子らしく厳かな口調で、あえてその言葉を突きつける。
「俺は明日、予定通り王宮に戻る。おまえはどうする?
俺と共に王都の門をくぐるか、それとも今までそうして来たように、おまえがかつて過ごした王都に背を向けるか?
選択はおまえ次第だ。おまえがどちらを選ぼうと、俺は何も言わぬ」
それはフラットレイの心臓に突きつけられた、白刃の刃。
どれ程の時が過ぎたろうか。
「―――パック殿と共に参ります。…ですが、王宮へのお供は出来かねます」
言葉を紡ぎながら、フラットレイは希望と絶望の混沌の闇へと身を躍らせる、そんな感覚に目眩を覚えていた。
自分はこれ程までに意気地のない男であったのかと、自己嫌悪に反吐が出そうだ。
「…そう…だな。知り人に逢うたところで、互いに気まずい思いをするだけか」
フラットレイは無言で首肯する。
ブルメシア最強の竜騎士フラットレイの帰還の噂と同時に、彼の記憶喪失の事もパッと世間に広まる事だろう。
フラットレイを追って旅立った彼の人がその噂を耳にすれば、どんなに彼女は嘆き悲しみ、苦しむだろう。
そんな事は絶対にさせられない。
「そうだ、いい事を思いついたぞ! フラットレイ、おまえが誰憚る事なく青の王都を歩ける方法だ!」
パックは早速行動に移った。
手紙をしたため、王家の紋章の入った封筒に入れ、さらに愛用のカバンに入れてチョコボの首から下げた。
「頼んだぞテミス。王宮にいるモーグリのアトラに渡してくれ」
「クエッ!」
賢いチョコボは難なくおつかいを果たして、真夜中過ぎに戻って来た。
そしてパックが目覚める朝まで、テントの横に設えられたふかふかの藁のベッドで眠りについた。


そして早朝。
「フラットレイ、起きたか? 起きたらこれを着るんだ」
朝早くから元気なお子様に強引に叩き起こされた青年は、まだ半分寝ぼけ眼で、眠い目をこする。
「…何ですか、この衣服は」
全身を覆う、フード付きの黒いマント。動きやすいよう、腰まで脇にスリットが入った黒の長衣。ぴったりとした黒のズボン。パックの差し出した衣装は、チュニックにゆったりとした膝丈のキュロットという、ブルメシアのそれとは全く趣を異にする。
おまけに黒い髪の染め粉と、瞳の色を変える極薄ガラスの鱗片まである。
いかに王子の命令とはいえ、フラットレイはそれらの品を見て、ほんのちょっぴり嫌そうな顔をした。
「異国の修道騎士の衣装だ。神官の衣装も考えたんだが、おまえの隙のない身のこなしじゃ、騎士以外には化けれんしな。これを身につければ、誰もおまえをフラットレイとは思わないだろう?」
パックは己の思いつきに、喜々として言う。
「ああ、それから槍は置いてゆけよ。槍を1度でも振るったりしたら、その腕で、すぐにおまえとバレるだろうからな」
「しかし丸腰ではあまりに…」
「槍の代わりにこれを使え」
抗弁するフラットレイを遮り、パックは細身の長剣を投げ渡した。
「…ダゲレオに武者修行に来ていた騎士と懇意になって、剣技も一通り教えてはもらいましたが、私の剣の腕では到底、一流の剣士には適いませんよ」
渋い顔をして、溜息混じりのフラットレイに、パックは涼しい顔でこう言った。
「おまえが竜騎士になる以前、ブルメシア最強の竜騎士の名を欲しいままにしていたクレセントは、槍はもちろん、剣の腕も一流であったぞ。
王宮内では槍を存分に振るえぬ狭い場所も多い故、竜騎士以外の近衛兵のほとんどが剣を好んで得物にしている。クレセントは、騎士たる者、いついかなる時でも王を守らねばならぬと言うて、竜騎士の修行に加えて剣の腕もたんと磨いたそうな」
昔のシゴキの仕返しのつもりか、意地の悪い顔でフラットレイを見上げるパックに、青年はぐうの音も出ない。
ちなみにパックの言うクレセントとは、ブルメシア全軍を統べる元帥にしてフラットレイの師匠でもある、フライヤの父エンディミオン・クレセントの事であるが、彼が何かを思い出す様子はなかった。
わかりました、と言ってフラットレイは渋々衣服を着替えた。
「似合うぞ、フラットレイ」
着替えの前は嫌がっていたが、騎士の資格を得る為に厳しい精神修行を積むと言われる、異国の修道騎士の衣装は、確かに彼に良く似合っていた。
俗に、喪服は美しい人をより際立たせて美しく見せると言うが、我欲を殺し祖国の為に力を振るう修道騎士を表す喪の色一色を纏ったフラットレイの姿は、内なる竜の魂が放つ凛然とした輝きが、より一層強調されて見える。
「…こういう、やたらずるずるした衣装は苦手なのですが、思ったよりは動きやすいですね」
誉められた本人は鏡をじっと睨んだり、長い裾を足で捌いてみたり、どうにも慣れない姿に落ち着かぬといった風情である。
「ついでにちょっと髪型も変えてみようぜ」
パックはフラットレイを跪かせ、長い髪を垂らして顔の一部を隠した。
「よし、これで完璧だ。うん、別人、別人♪」
出来上がったフラットレイの変装に、パックは1人満足そうだ。
2人はテントを畳むと、王都に向けて出発した。




「着いたぞ。ここが青の王都ブルメシア。おまえの故郷だ」
「…………」
ブルメシアの正門の前で、パックは遠くに見える王宮の尖塔のてっぺんを見つめていた。
城出中のパックにとっても、実に数ヶ月ぶりの帰還になる。
2人はチョコボを降り、並んで歩きながら王都の門をくぐった。
城へと続く大通りを行き交う人々を、フラットレイは目深に被ったフードの下から言葉少なに眺めている。
「大丈夫。この青の王都で、おまえはずっと暮らして来たんだ。きっと思い出せるさ」
パックはそう言葉をかける以外に、なす術のない自分が歯がゆかった。
「…ええ。それよりパック殿は、王宮へ戻られるのでしょう? 私は城下町で目立たぬ宿を取りますから」
「うむ。とりあえず父上に顔を見せねばならぬからな」
フラットレイが無理に笑顔を見せるから、パックも王子としての顔に戻るしかない。2人とすれ違う人々が時折、目立つチョコボの手綱を引くパックを見て、会釈をして行く。
「フラットレイ、これを持って行くがいい」
大通りと路地の1つが交差する角でパックは立ち止まると、フラットレイに地図を手渡した。それには宿の場所や王宮、そしてパックの知る限りの彼の思い出の場所や、行きつけの店などが記されている。
パックが城を内緒で抜け出すたび、お目付役であるフラットレイ、もしくは彼が不在の場合にはフライヤが、適当な頃合いを見計らってパックを街の遊び場まで迎えに来たものだ。
帰り道を一緒に歩いていれば、そういった彼に関わる物なども、自然と覚えてしまっている。
―――もっとも、今のフラットレイはそうした事も、少しも覚えてないんだろうな。
パックは溜息を1つ、落とす。
「ここでしばらくお別れだ。角を右に曲がると宿があるから。必ず城を抜け出して、訪ねて行くからな!」
「パック殿も、城へ戻られるまでお気をつけて」
そう言って2人は別れたが、後ろ髪を引かれるように何度も振り返るパックに、フラットレイは心配するなとでも言うように、笑顔で軽く手を上げ、ひらひらと振った。


「お帰りなさいませ、パック王子。相変わらずお元気そうで何よりですな」
「うむ。父上は王の間におられるのか?」
王宮の入り口でテミスをチョコボ番の老人に渡すと、パックは一目散に王の間へと向かった。
すれちがう女官や近衛兵が王子の姿を認めて、最初は驚きに目を丸くし、次に笑顔になるのを、駆け足の目の端に止めながら。
「父上! パック、ただいま戻りました」
玉座の前で正式の騎士の礼を取るパックに、ブルメシア王は目を細めた。
“His silver skin laced with his golden blood.”(彼の銀色の肌には黄金の血が流れている)
とエイヴォン卿が称えし歴代ブルメシア王の末裔(すえ)である。
「よう戻って来たな、パック。旅は楽しかったかの?
近う。久方ぶりじゃ、父に良く顔を見せておくれ」
王は玉座から立ち上がると、片膝をついてパックを思い切り抱きしめ、髪をぐりぐりと撫で回す。
「この腕白者めが! かように長く城を留守にしおってからに、もしそなたの母上が存命であったら、生きた心地もせぬとさぞ嘆いた事じゃろう」
多産で知られるブルメシア人だったが、王家の血を濃く引く者ほど、その強大な魔力と引き換えにするかのように、出生率が極めて低い。
強い魔力を持った子を同時に幾人も胎内で育むのは、たとえ母親が力の強い巫女や魔道士であっても非常に母体への負担が大きい為、自然の力が王家に生まれる子を極端に少なくさせていた。
王子としての教育は厳しく行っていたものの、王妃が遺したたった1人の息子を、王は目の中に入れても痛くない程可愛がっていた。
「ち、父上。ほら、婆様が笑っております。恥ずかしいから止めて下さいってば!」
パックに婆様と呼ばれた風の大巫女は、玉座の下に控えて、親子の数ヶ月ぶりの対面を目を細めて眺めている。
「宜しいではありませぬか。王子のいない間、王はそれは寂しそうにしていらっしゃいましたからのう」
ほほほ、と大巫女が、明るく笑い声を上げた。
「わらわの方こそ、親子水入らずのところを邪魔して申し訳なく思うております。
何しろ王子の帰還を祝って、せせらぎが歌い、炎が踊り、地に王の花咲きて、風が嬉しい便りを運んで来ますれば、一刻も早う我らがペンドラゴン殿にお会いしとうて」
「なんの。大巫女殿であれば、何の遠慮が必要なものか」
先々王の庶子にして、先代王の末の異母妹にあたる風の大巫女は、不可思議な雰囲気を持っている女性だった。
英知を湛えた瞳は年齢以上に、時経りし者の深みを彼女に与えているが、涼やかな立ち居振る舞いと、笑うと少女のようになるその顔(かんばせ)は、時の流れを止めてしまったかのように、往年の美しさを未だにとどめている。
「陛下、つもる話もおありでしょうから、サロンの方に移られてはいかがでしょう?」
大巫女が苦笑しながら、父王の子煩悩ぶりのこそばゆさに目で訴えて来るパックに、助け船を出す。
「おお、そうじゃの。旅の話を父にいろいろと聞かせてくれぬか」
抱擁からようやく解放されたパックは、大巫女に感謝の目配せを送った。


パックは世界を巡って見聞きした事を王と大巫女にかいつまんで話し、最後にフラットレイの事は伏せたまま、南ゲートでの出来事を話した。
たちまち2人の顔色が、険しい物へと変わる。
「―――で、魔法の暴走で何とかその場は切り抜けられたけど…正直言って怖かったよ。
敵を倒すのに夢中になればなる程、俺の意志に関係なく俺の魔力は増幅し、手を離れて暴走して行く。封印の呪符がなければ、俺も魔物ども同様に赤い月の狂気に支配されていた…と思う」
「だがそなたは無事であった。王家の黄金の血の魔力はあまりに強大だが、暴走のあげくの狂気の淵をそなたが識るなら、いつの日か必ずや己の魔力を完全に制御する事も出来ようぞ」
王が両方の手の平で包み込むように、パックの手を握る。目顔で何事か王と会話を交わした大巫女が、王子の座るソファの前に進み出て、彼の目線に合わせて膝をつく。
「パック王子。王子の成長に従い魔力もまた、以前より大きくなっておられるのでしょう。封印を強化致しますゆえ、呪符をお貸しいただけますか?」
「え…でも…」
「新しい呪符を作るのに、その封印のルビーがどうしても必要なのです」
魔法に関してブルメシアで風の大巫女の右に出る者はいない。彼女が必要だと言うのなら、そうなのだろう。
けれど今、護符を外したら、またあの夜の感覚が戻って来るようで怖かった。
不安げなパックの心中を察してブルメシア王が言う。
「予の側におれば大事ない。そなたの近くで見張っておれば、また塔を爆破するような事もあるまいからの」
「…その話はもうかんべんしてくれよ」
とほほ顔になるパックに、ブルメシア王も大巫女も明るい声を立てて笑った。
風の大巫女はパックから封印の護符を受け取ると、代わりに己の指に輝くスターサファイヤの指輪を外した。古来から神に仕える者達の間で、幸福の石、運命の石と呼ばれる深い蒼色の宝石を、護符の鎖に通してパックにかけてやり、封印の呪文を唱える。
「これでしばらくは呪符の代わりになりましょう。ご安心下さいませ」
そう言って大巫女が、柔らかな笑顔を浮かべる。
母を知らぬパックは、大叔母にあたる風の大巫女を実の祖母のごとく慕っている。
優しい笑顔に不思議な安心感に包まれたパックは、呪文より何より大巫女の笑顔の方が遙かに強力な魔法だな、と心の中で思った。


結局その日1日パックは王と共に過ごし、いつしか王の寝所で深い眠りについていた。
互いにいろいろな話をしても、話が尽きる事はなかった。
そして翌日。夜半からの雨は、今日も冷たく降り続けている。
「フラットレイ、どうしているかな…」
懐かしい雨を王宮の窓から見上げながら、パックは1人ぽつりとつぶやいた。




フラットレイはパックと別れた後、ブルメシアの街を行くあてもなく彷徨い続けていた。
見知らぬ街を彼と同じ血を持つ人々が行き交い、にぎやかに会話を交わし、笑い、そこで暮らしている。
どこの国の街でも見られるありふれた風景なのに、何故だか落ち着いた気分になれるのは、ずっとブルメシア人を見る事の少ない他国を旅して来たせいだろうか?
街の中を吹き抜ける穏やかな風は、王宮あるいはその奥にある大神殿からのものか。
穏やかで力強い風に守られた安寧の都。
フラットレイは青の王都を歩きながら、そんな印象を抱いた。
何か思い出せる事はないかと考え事に集中していた為、フラットレイは大通りを勢いよく駆けて来た子供とぶつかってしまった。
「あっ!」
ふわり、と女の子が持っていた風船が、小さな手から離れる。
思わず泣き顔になる幼い少女の目の前で、全身黒ずくめのマントの青年が風船よりも空高くジャンプして、無事風船をつかまえて地上に舞い戻る。
「はい風船。ぼんやりしていて悪かったね、小さなレディ」
フラットレイの華麗なジャンプを、ぽ〜っと見ていた女の子は、風船を受け取ると輝くような笑顔になる。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「どういたしまして」
満面の笑顔に、フラットレイも思わず引き込まれて笑みを作る。
女の子と別れた後も、行き先を特に定めず足の赴くまま歩いた筈なのに、彼は気が付くと王宮の門の前に立っていた。
「…………!」
自分でも意識していなかっただけに、驚きの念が強い。
―――覚えている、のか?
思わず城門の奥へと足を踏み出そうとしたフラットレイの目に、門の奥の中庭を歩いているテミスの姿が映った。
「クェェッ!」
フラットレイに気付いた王子のチョコボが嬉しそうに鳴き声を上げ、そのまま駆け寄って来ようとする。
城門を守る衛兵が、不審の目でじろりと彼を見た。
―――今は昔の知り合いになど、会いたくない!
強い衝動に駆られ、フラットレイはあわてて王宮前から立ち去った。


一通りブルメシアの街を歩いた後で、フラットレイはパックからもらった地図を広げた。
あえて地図を使用しなかったのは、自分の記憶がどこまで残っているのか知りたかったからだ。
「…………」
パックが記した、自分の昔なじみの場所を幾つも通り過ぎておきながら――記憶の糸口を見つけられはしないかと注意深く歩いたつもりなのに――まったくそれと気付かずにいたのである。
よくよく考えてみれば、どこの国でも城下街というのは、王宮を中心に道が作られている。
街の正門を背にしている限り、例えどんな道を通ろうと、いずれ必ず王宮にたどり着くようになっているのだ。
こんな単純な事、地図を見るまでもなく判り切っているのに、記憶が戻ったなどと勘違いして喜ぶとは…。
己のあまりの愚かさ加減に、涙も出やしない―――。
ブルメシアの地にはかすかな希望と同時に、希望より更に大きな絶望が待っていると判っていたのに…。
フラットレイは瞑目して、天を見上げた。
まるで溢れそうになる涙を、必死で堪えるかのようにして。


夜になり、フラットレイは安宿のすぐ側にある酒場で夕食を取っていた。
竜騎士たる者、例え何があろうと、食べれる時には食べておく。
戦いに身を置く者の鉄則であるが、今宵の食事に限っては何を食べても味がしない。
…ならば酒にでも溺れてみようか?
酒場はかなりのにぎわいを見せ、夜が更けるにつれて次第に客が増えて来る。
勤めを終えた城の兵士数人が店に入って来て、空きテーブルがないと知ると、店内を見渡し、1人で飲んでいたフラットレイの所へとやって来た。
「あの、失礼ですが騎士様。ここのテーブル、相席しても宜しいですか?」
一目で異国の騎士と判る青年に、若い兵士達は丁寧に訊ねた。
フラットレイがうなずいて同意を示すと、彼らは嬉しそうに席について、酒と食べ物を注文する。
「助かりました。ここの店の酒と料理がないと、一日が終わったっていう気がしないもんで」
「あんた異国の生まれかい? 珍しいな、異国のブルメシア人の騎士なんて」
「確かに珍しいかもしれんが、この霧の大陸のアレクサンドリアやリンドブルムとて、ブルメシア人が全く住んでいない訳ではないだろう?」
フラットレイは心の中で苦笑いしながら答えた。
そうだ、そうだ、おまえ馬鹿丸出しな事聞くなよ〜、とか、どこの田舎育ちなんだ〜?などと、陽気な兵士達が仲間にツッコミを入れる。
「ところで騎士様。もし宜しければ、珍しい旅の話や異国の地の話など、我々に聞かせていただけませんか?」
好奇心いっぱいの目で自分を見つめる若い兵士達に、酒の手伝いもあってか、フラットレイは大胆にも何食わぬ顔でこう言った。
「いいとも、お安いご用だ。代わりに私も君達に聞きたい事がある。
私は今、修行の旅の途中で、このブルメシア最強の竜騎士と謳われるフラットレイ殿の噂を聞き、ぜひとも手合わせしたいと望んで参ったのだが、彼はあいにく数年前ブルメシアを出たきり行方不明とか。せめて彼がどんな竜騎士だったのか、教えてはくれまいか? 天が私に味方するなら、旅の途中で彼と出会えるやも知れぬしな」
フラットレイの名が出た途端、兵士達は気まずそうに顔を見合わせた。けれど騎士の青年がフードの下で、ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべているのを見ると――最強の竜騎士ともなれば、必要とあらば戦場で仲間を鼓舞し、己の恐怖心さえ欺く演技力など自然と身につけている――互いに肘で突っつき合ってた兵士達が、ぽつりぽつりと語り出す。
「そうだなぁ…俺が王宮警護の兵士になったのも、城の武術大会でフラットレイさんの槍術を見て、他の竜騎士を誰1人寄せ付けない、圧倒的な強さに憧れたからだったんだよな」
彼の言葉に仲間達が、俺も俺も、と声を上げる。
「“彼の者の槍術、氷よりも冷徹に、空を駆ける風よりも速く、抜き身の刃よりなお危険”――“氷竜の刃”と異名を取る、竜騎士団の誰もが認める最強の竜騎士でありながら、少しも驕るどころか、更に己を磨く努力を惜しまない人だった。
竜騎士の中にはプライドばかり高くて威張りくさってる、どうしようもない奴も少しはいるが、あの人は見習いの俺達の訓練にも気さくにつき合ってくれたっけ」
一同がうんうんとうなずき、フラットレイの武勇伝の数々を、懐かしそうにあれこれ語った。
「―――でもフラットレイさんは修行の旅に出たきり、遠くの地で亡くなったと聞きました。
フラットレイさんがブルメシアに戻ってきたら、もう1度あの見事な槍さばきをこの目で見るのを楽しみにしていたのに…」
皆は黙り込んでしまった。
「…そうか、亡くなられていたのか。悪かったね、こんな話をせがんでしまって」
「いいえ。異国の地からの客人が、フラットレイさんとの手合わせを望んで、わざわざブルメシアまでやって来るなんて、俺達も誇りに思います!」
黒いマントの騎士はうなずくと、手にしたグラスを掲げた。
「…フラットレイ殿に」
ブルメシアの兵士達も同じ仕草をすると、無言で杯を飲み干す。
外では、冷たい雨が降り出していた。


数日後。
フラットレイは青の王都を見下ろす丘の上の大樹の下に座って、長い時間、雨に濡れそぼる街を眺めていた。
「結局ブルメシアに戻って来ても、何1つ思い出せぬ、か。フフッ…」
フラットレイの口元に、乾いた笑いが浮かぶ。
彼は首にかけた竜珠を取り出した。
フラットレイが記憶を失う程の怪我を負った時、この竜珠に込められた旅の無事を祈る魔法の力がなければ、彼の生命はとうになかったろう、と言われた物だ。
『竜珠よ、教えて欲しい。彼の女性は、このブルメシアの地にいるのだろうか?』
けれど風は何も教えてはくれなかった。
「―――当然、だな。私がブルメシアを出てから、もう5年以上も経っているんだ。
おまけに都中に私の訃報が伝わっているとなれば、私を待つ者など誰もいる訳がない、な」
絶望の闇が、わずかに残っていた希望の光を、容赦なく食い荒らし、彼の心を暗黒の闇一色に閉ざして行く。
自分はこの結末を知っていた。
知っていたからこそ、青の王都に帰る事を怖れ、現実を正視する事を怖れ、ありもしない希望を探して世界を彷徨い続けて来た。
“この門に入る者、全ての希望を捨てよ”
黄泉の国の門に、そう書かれていると記した詩人がいた。
ブルメシアの人々の間ではとうに死んだ事になっている竜騎士の亡者の影を追い求めて、生者の自分は王都の門をくぐり、街を彷徨い歩いてる。
なんて滑稽なんだろう。
フラットレイは苦い笑いを浮かべる。
ならば、今のこの私は、一体何者なのか?
幾度も繰り返して来た、自分自身への問いかけ。
それに答える者は、誰1人いない。
絶望に伴う徒労感だけが、心にじわりと広がって行く。


その時、風が丘の上を駆け抜け、フラットレイの頭上でざわざわと木の葉が音を立てる。
フラットレイは、ふと奇妙な事に気付いた。
「…この樹だけ風が?」
周囲の木々は静かに雨に打たれているのに、フラットレイと、彼が雨宿りに身を寄せている大樹の周りだけを風が渦巻いている。
悪戯好きな風の精霊の仕業だろうか、さわさわと歌うように揺れる緑の枝はまるでフラットレイを、ここへおいでと差し招いているかのよう。
「…? 上に何かあるのか?」
パックは“風はおまえが何者であるか、誰よりも良く知っている”と言った。
フラットレイは立ち上がると、最も地上に近い、一番太い枝まで軽々とジャンプする。
四方に枝を張り巡らせた大樹の上は、まるで緑の立体迷路。その中をフラットレイの手足は梢までの最短ルートを、頭で考えるよりも早く辿って行く。
「…………」
自分は確実に、かつてこの場所に慣れ親しんでいた。不思議な既視感に、フラットレイの心が逸る。
戯れるように木の葉をかき鳴らす風の後を、竜騎士が枝を伝うかすかな音が追いかける。
そして身軽い竜騎士でも、もはやこれ以上上の枝には足をかけられぬ、という高さまで登り切った時、風がある場所を指し示した。
「これは……?!」
フラットレイがそこに見い出したのは、幹に刻まれた神聖文字=竜の言葉で書かれた、誓約文だった。
『我フラットレイ・ハイウインドは、風の精霊の御名においてここに誓う。
我は必ずや竜騎士に…ブルメシア最強の竜騎士になりて、この地の守護者たらん事を。
風となりて空に還りし愛する人々よ。我が誓約を聞き届けたなら、どうか安らかなる眠りにつかれん事を。
フラットレイ・ハイウインド』
パックが言っていた。
フラットレイは、辺境の小さな小さな村の、村長(むらおさ)の長男として生まれ育った。
悲劇は、彼が竜騎士を志して青の王都に上がった、その年の村祭りに起きた。
祭りの日に神殿に奉納される黄金製の槍。
小さな村の唯一の財産であるそれを狙って、
賊が祭りの当日に村を襲ったのだ。
酒と音楽と踊り。年に1度の楽しい時を過ごしていた人々の目の前で、家に火が放たれ、たとえ女子供であろうと容赦なく、盗賊達の刃に赤い花を散らしながら、殺されていく。
長であるフラットレイの父は、腕に覚えのある村の男達と共に善戦したが、多勢に無勢。
戦い慣れた盗賊達の敵ではなく、その日、辺境の小さな村は炎と共にこの世から消滅した。
知らせはすぐに青の王都、そしてフラットレイの元へと届けられた。
両親と幼い弟妹、幼なじみの友人達、そして帰るべき場所さえ一度に失った竜騎士見習いの少年――後に蒼の氷竜と呼ばれるブルメシア最強の竜騎士は、その時、生涯ただ一度の涙を人前でこぼしたと言う。
王命により、ブルメシアのみならず、霧の三大国全土に手配が及び、後に捕らえられた盗賊団は王の手によって裁かれる事となる。
ここまでが、パックが話してくれた事だ。
失った故郷へ帰る事も出来ぬ、また修行を名目に帰る事を許されぬ幼い少年に唯一出来たのは、青の王都で最も空に近いこの場所に、習ったばかりの神聖言語で亡き人々に誓いを捧げ、彼らを弔う事だった。
竜が使う言葉は、それ自体が魔力を帯びている。
遙かな昔、ブルメシアの民は竜と共に空を自由に駆けていたという。竜と心を交わす為の神聖言語を習得するのは、今でも竜騎士の必須教養とされていた。
空と風だけが知る少年の誓約文にフラットレイがそっと手を触れると、それに込められた深き祈りと悲しみ、何も出来なかった自分への歯がゆさ、愛する人々への想い、そして何より悲しみと絶望の深き闇に勝る、どんな敵にも決して負けぬ竜騎士になるのだという固い決意――幼き日の、全身全霊を込めた叫ぶような想いが、フラットレイの身内に流れ込んで来る。
ああ、とフラットレイは瞑目した。
「風よ、古き大樹よ。私にパック殿のような力があったなら、もっと多くのあなた方の声を――過去からの囁きを、聞けたでしょうに」
我知らず、彼は微笑んでいた。
フラットレイは、祭司の王が大地に口づけするように、過去の欠片をずっと記憶していてくれた大樹に、敬愛を込めてそっと口づけた。




結局その日も、その次の日も、パックは全く城を抜け出す事が出来ず、フラットレイにずっと会えずにいた。女官達が、また王子に城出されては大変と、どこへ行くにもついて回るのである。
その見事な連携ぶりはさしものパックも舌を巻く程で、迷宮のような奥宮の回廊で女官の1人の追跡をうまくまいたとしても、別の女官がいつの間にか目の前に微笑みを浮かべて立っている、という具合である。
貴族の長老共の中には、度重なる城出を繰り返す王子を、悪し様に言う者も少なくないと聞く。
そういう口うるさい連中を、遠ざけてくれているのは助かるのだがな…と、屋根の上から、コの字型になった建物の向かい側、最上階の窓の向こうで、重鎮貴族の誰ぞと口論している女官長の姿を遠目で見ながら、パックは1人つぶやく。
今も過去を求めて、青の王都を彷徨っているであろうフラットレイが、どうしているのか気にかかる。
『風の精霊よ…王の子、パックの声が聞こえたなら、どうかフラットレイに助力を』
パックの請願を聞き届けた一陣の風が、ふわりと青の王都へと、駆けるように吹き抜けて行く。
「…おや? 誰ぞ風を使った者がおるようじゃの」
王は軽く目を閉じ、心を澄ます。
魔道の力が働いた形跡は、全く感じられない。
青の王都、ことに王宮内を吹く風は、王と、大神殿の司である風の大巫女の支配下にある。
魔法を使うでもなく、また音楽と踊りで構成される魔歌(まがうた)を使うでもなく、風を操る事の出来る者は、先の2人以外にもう1人いる。
王子の部屋に向かう途上であった王は、くるりと踵を返すと、風を感じたそちらへと向かった。
「パック!」
パックのいる屋根の向かい側の窓から、父王が顔を覗かせる。
「あ、父上」
「パック、こんな処におったのか? 実はそなたに見せたい物があっての。探しておったのじゃ。一緒に来るがよい」
連れて行かれた書斎にて、王がパックに見せたのは羊皮紙に書かれた古い地図だった。
先日の虫干しの際に、司書が見つけたのだという。
「これはご先祖の第5代ブルメシア国王が隠した、宝の地図じゃ。初代国王が使ったと言われている、天地を切り裂く竜王の槍が埋められている、と書かれておる」
「…ご先祖様の貴重な槍を、どうしてわざわざこんな辺境の大陸に隠したりするんだ?」
パックは思い切りうさんくさげに、地図を一瞥する。
「天地を切り裂く程の威力を持った槍であれば、扱える者がおらなかったのであろう。なまじな者が扱えば、かえってブルメシアに災いなすであろうからの。
もっと悪い事に、竜王の槍が王位の象徴として、その所有権を巡って王の子らの間で争いが起きたとある。内乱の末、第5代国王が実の兄弟達を謀反の罪で処分したのち王位についてから、2度とそのような争いが起きぬよう、遙か遠くの地に槍を封印したそうじゃ。
ほれ、地図のこの部分にもそう書いてある」
ブルメシアの歴史に名高い事件が記された箇所を、王が指で示すのを、パックはふーんという様子で眺めている。
実は内心、興味津々なのだが、パックの気を引きたい父王の思惑通りになるのも、何となく口惜しい。
「何じゃ、冒険好きのそなたが見たら喜ぶと思うて、わざわざこうして取って置いたのに。
まぁ良い。これはそなたにやろう。そなたの物なのだから、好きにして良いのじゃぞ?」
さりげなくそう言い置いて、王はスタスタと書斎を出て行く。
―――天地を切り裂く竜王の槍、かぁ。フラットレイなら使えるかもな。
もう地図を夢中になって眺めているパックをそっと振り返って、王はクスと小さく忍び笑いを漏らしてドアを閉めた。


パックが王宮に戻って一週間目。
「パック王子。王子にお会いしたいという旅の者が、これを持って参っておりますが、いかが致しましょう?」
女官長がパックに見せたのは、フラットレイに渡した『ブルメシア』のカードだった。
王宮の横に描かれた竜の翼に、小さくペンドラゴンの署名がある。
「それ、黒ずくめの騎士だろう?! 今どこにいる?」
フラットレイのいる控えの間を聞き出すと、パックは女官長を置きざりにしたまま、一目散に走り出していた。バン、と乱暴にドアを開けると、果たして竜騎士の青年が王子を待っていた。
「フラットレイ!! すまん、ずっと王宮に閉じこめられてたんだ」
いいえ、と青年が穏やかな笑みを返す。
「ブルメシアの街はどうだった? 何か思い出した事は?」
フラットレイは再び首を横に振る。
「良き事も、悪しき事も共にありました。
過去の欠片をたった1つ見い出す事、叶いましたが…記憶の方は何も」
「そうか…。とりあえず、おまえの使っていた王宮内の部屋に行ってみないか?」
フラットレイの執務室兼居室は、昔のままになっていた。
過去の残骸で埋め尽くされた部屋の品の1つ1つをフラットレイは手に取るが、何1つとて彼の記憶を刺激する物はなかった。
「…………」
判っていた事だ、と自嘲を浮かべる。今更何を、期待しようと言うのだ?
いつの間にやらどこかへ消えていたパックが戻って来て、ある物を彼に差し出した。
「フラットレイ、これ」
パックから渡されたのは、見事な木彫りの彫刻が美しいオルゴール。蓋を開けると、どこかもの悲しい澄んだメロディが流れ出す。
「――――これは…?!」
いつかどこかで聞いたメロディ。
けれども、それが何なのか。フラットレイは記憶を懸命に辿ろうとするが、闇の中の不確かな記憶の残滓は、この手に必死で掴もうとした途端、幻のごとく霞と消え、どうしても思い出す事が出来ない。
やがてオルゴールの音が途切れると、フラットレイは静かに首を横に振り、パタンとオルゴールの蓋を閉じてパックに返した。
「やはりダメ…か。このオルゴールは、おまえの大切な思い出の品だったんだが」
フライヤの誕生日に、フラットレイが彼女の一番好きな曲を贈ったもの。
フラットレイがブルメシアを去ってから、何度も何度も繰り返し聴いた為にゼンマイが切れてしまい、嘆く彼女を見かねたパックが預かって王宮の技師に修理させていた。
けれど修理が終わるその前に、フライヤもまた旅立ってしまった。
パックはネジを巻くと、もう1度オルゴールを鳴らす。
「…もう、良いのです。パック殿。
天におわす神々とて過去へと至る時の橋を渡る術を持たぬのに、たとえ過去を取り戻せたとしても、どうして今の私が、かつての“氷竜”フラットレイ・ハイウインドと、全く同じ人間になれる筈がありましょう?
失った過去をどうしても思い出せぬのなら、なくしたものを取り戻す事よりも、今の生を生きる事の方が大切なのだと。心からそう思えるようになりました」
そう言ったフラットレイの、黒い修道騎士のマントに覆われた白い顔は、あまりにも静謐だった。
「…つまり、おまえはもう、過去を追う事はせぬと?」
フラットレイにとっては、闇雲に後ろを向いて生きるより遙かにマシな、あまりにも当たり前であまりにも困難な道の選択。
だがフライヤの気持ちを思うなら、どんなに時間がかかってもいい、過去の思い出をフラットレイに取り戻して欲しい。
例えそれが、自分1人のエゴに過ぎぬとわかっていても。
―――俺は…どうしたらいい?
暗然とした面持ちで、パックがつぶやく。
「いいえ、私とて思い出したい事はあります」
彼は無意識のうちに、襟元の下の竜珠に手を当てる。
「けれど、もう5年以上もの間、己の過去を求めて、ずっと悪あがきを続けて来ました。
時として悪魔のように残酷に振る舞う希望を、これ以上追い求めるより、今は時の女神の癒しの御手がこの身に置かれるのを待ちたい。そう思います」
「…確かに、それも1つの生き方ではあるが…あまりにも哀しいな、フラットレイ」
フラットレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「全てをあきらめ、捨てた訳ではありません。
私は、私の一番欲しかった探し物だけは、手に入れる事が出来ました。
結局、何も思い出せはしませんでしたが、確かに私はこの青の王都の風を知っている。
ブルメシアは我が故郷であり、この手で護るべき地であるのだと。
それを見つけられただけでも、ブルメシアに来て良かった。トレノで貴方に出会えた事に、心から感謝しております」
フラットレイはパックの前で片膝をつき、小さな王子をまっすぐ見据えてこう言った。
「ブルメシアの次代の王たるペンドラゴンよ、このフラットレイ・ハイウインド、竜騎士として王と王国に新たなる忠誠を誓う事、認めていただけるでしょうか?」
フラットレイは深々と頭を垂れて、竜騎士としての最高礼を取る。
静かにうなずくパックの手の中で、もの悲しく鳴り続けていたオルゴールの音が、途切れがちになって、パタリと止んだ―――