ピ エ タ





「ジタン…! 必ず戻って来て!」
ジタン1人をイーファの樹に残し、ヒルダガルデ3号が大地から、夕日に染まる空に向かってふわりと舞い上がる。
甲板から身を乗り出すようにして、いつまでも下を見つめているガーネットにフライヤが声をかけた。
「ジタンなら大丈夫じゃ。あやつの事じゃ、何事もなかったかのように、ある日突然ひょっこりと帰って来るに決まっておる」
長いつきあいもあってか、フライヤにはジタンは必ず帰って来るという不思議な確信があった。
そう、ジタンならば、何も心配する事はない。
だが…あの方はついに戻って来ては下さらなかった。
フラットレイ様…。
だから不安に思うガーネットの気持ちは、痛い程に良く分かる。
「大丈夫、いざという時のあやつのたくましさは、おぬしも良く知っておろう?」
―――そういえば、3年前ジタンと共に旅をしていた時、モンスターに食料を盗まれて難儀した事があったの。
その時、あやつはどこぞのチョコボファームからチョコボの卵を山ほどくすねて来おった。
生みたてのチョコボの卵は、飢えたこの身にとって類稀なる美味であったが…。
とても人に言えない、あんな事やこんな事の数々を思い出して、フライヤは遠い目をした。
ジタンのブリ虫並の生命力が、フラットレイ様にもあったらどんなにか良かっただろうに…。
いや、今は余計な事を考えている場合ではなかったの。
フライヤは物思いを断ち切り、ガーネットを安心させるように笑いかけると、ガーネットがかすかにうなずく。
「わぁあっ…!」
ビビが突然、歓声を上げた。
気づくとリンドブルム飛空艇団がヒルダガルデを中心に結集し、整然と隊列を組んで飛行している。
イーファの樹周辺にレッドローズとわずかな飛空艇を残し、彼らが目指すはリンドブルム。
夕日が空と眼下の霧を金色に染め上げ、紅の陽光を受けた飛空艇が時折キラキラとした輝きを見せる様は、さながら黄金の海を駆けているかのよう。
「なんてきれいなの♪」
「ほう、見事なものでありますな」
「この夕焼け色のアメ細工をいっぱい飾った料理思いついたアル。 きっとすごい料理が出来るね。
帰ったらすぐに作って皆に食べさせるアルね!」
その場にいた全員が、それぞれの言葉で感嘆の声を漏らす。
『永遠の闇』を葬った強者達ですら、決してその力及び得ないガイアの美しさを目の当たりにして、長かった戦いがようやく終わり、自分達が“在るべき場所”に無事に帰って来たのだという静かな満足感が、それぞれの胸の内にこみ上げて来る。
キラリ。
ヒルダガルデのすぐ隣を航行していた飛空艇の甲板で、何かが光った。
「あれは…!」
フライヤの鋭い視覚がそこにあるものを捕らえるや、彼女は宙へと身を躍らせ、あっという間に隣の艇へと飛び移っていた。
「パック王子! フラットレイ様!」
フライヤの声が驚きと、それ以上の嬉しさに弾む。
パックの隣にたたずんでいるフラットレイの研ぎ澄まされた槍が夕日に照らされ、鈍い金属光を周囲にキラキラと放っている。
「あの女…無謀にも程がある」
呆れたようにサラマンダーがつぶやく。
いくら向こうの飛空艇がギリギリまで接近をして来たとはいえ、気流に不安定に揺れるヒルダガルデから、20メートル近くはあろうかという距離をためらいもなく飛び越えるとは。
無論、着地に失敗すれば生命はない。
「いいなぁ、フライヤは」
高い所と飛空艇そのものが苦手なビビが、心底うやらましそうに言った。
ビビがせめてもとばかりに手にした杖を高くかかげて大きく振ると、向こうでもパックがブンブンと手を振り返してくれる。
夢中になって手を振り合う子供達の姿に、まだどことなく硬い表情をしていたガーネットが優しい目をして、ふふっと声を立てて笑う。
―――ガーネットは大丈夫。不安になんか負けていない。
彼女をそっと見守っていたスタイナーや、エーコ達も皆ほっとしたように、互いに顔を見合わせ笑顔を浮かべた。




「パック王子、フラットレイ様。お2人とも、やはり来て下さったのですね!」
「俺達だけではないぞ、フライヤ。生き残った竜騎士達で負傷者と、民の護衛に残した者以外全員が各艦に乗船している。
リンドブルムとアレクサンドリアが共に手を取って戦うという時に、我がブルメシアが何もせずにおられる訳がなかろう? 皆や父上の仇を取る、千載一遇のチャンスだからな」
威厳に胸を反らしていた王子が、わずかに伏せたその瞳に、幼き身故に何も出来なかった悔恨と悲しみの念が浮かぶ。
だがそれは一瞬の事で、パックは唇を引き結び顔を上げると、フライヤに向かって凛然とこう言い放った。
「フライヤ。おまえも、戦いに勝って戻って来たようだな? おまえの顔を見ればわかる」
「御意」
パックの言葉に、女竜騎士の怜悧な顔(かんばせ)に誇らしげな輝きが閃く。鷹揚な仕草でうなずくパックの表情にも、満足そうな笑みがこぼれた。
「こちらも本当にすごい戦いでしたよ!
何しろものすごい数のドラゴンでしたから、我々リンドブルムの誇る飛空艇団の砲撃をかいくぐって、艦に体当たりしてくるドラゴンも1頭や2頭ではありません。
ここにいるフラットレイさんや竜騎士の方々の活躍がなければ、今ごろ全ての艦はバラバラに空中分解していた事でしょう」
彼らと一緒にいたリンドブルムの船乗りが、いまだ戦いの興奮さめやらぬ口調で口を添えた。
「そうでしたか。フラットレイ様の活躍ぶり、私もこの目で拝見しとうございました」
フライヤが美しいエメラルドの瞳を和ませ、鮮やかな笑顔を浮かべる。
その晴れやかな表情には、かつてクレイラで『このフライヤの事を忘れたと申すのか?!』と泣き叫んでいた女の影はみじんもない。
何かを乗り越えてきた者だけが持つ、輝くような美しい笑顔に、フラットレイは我知らず魅せられていた。
フライヤはパック王子に向き直ると、片膝をつき、深々と頭を垂れる。
「王子、フラットレイ様。ご苦労でございました」
「うん。おまえもな」
パックが大きくうなずき、短いけれども篤いねぎらいのこもった言葉をかける。
「ありがとう存じます」
ブリッジから船乗りの1人が駆け寄って来て、きりりと敬礼をする。
「パック王子、ヒルダガルデから入電です。 シド大公より、祝杯の用意が出来たのでブルメシアの方々もおいで下さるように、との事です」
「パック殿、参りましょう」
ふと我に返ると、フライヤの顔ばかりずっと見つめ続けていた自分に気づき、フラットレイはそれでも慌てたそぶりなぞ一切見せずに、パックを腕に抱えるとヒルダガルデへと乗り移って行った。
フライヤも、すぐ彼の後に続いて飛翔する。
ヒルダガルデで祝宴が始まろうとしていた。




「ふう」
フライヤは騒々しい活気に満ちたブリッジから抜け出すと、誰もいない飛空艇の後部デッキへとやって来た。外はすっかり夜になっており、空には満天の星々が輝いている。
祝杯といっても飛行中なので、リンドブルム特産・船乗り御用達ノンアルコール麦酒モドキが全員に振る舞われた。
それを見越したバクーだけが秘かに酒を持ち込んでおり、酔っぱらってエリンに絡んで、頬に派手な赤いモミジ形の跡をつけている。
アルコールの代わりにヒルダガルデの乗組員達は皆、イーファの樹の向こう側での事を聞きたがった。
「…でね、ビビの魔法ですらぜーんぶ跳ね返しちゃう、すっごい嫌なモンスターがいっぱいいたの!
このアタシが“デスペル”や召喚魔法覚えてなかったら、きっと面倒な事になっていたわ。ね、ビビ」
「う、うん…」
(ホントは僕、そうしようと思えばモンスターのリフレクを無効にしちゃう事も出来るんだけど、エーコが『アタシがいるのにそんなもん必要ないの!』って言い張るから…)
さわらぬ神に祟りなしといった表情のビビが、目一杯胸を反らしてるエーコに向かって、力無くうなずく。
「このブリキの鎧はクジャの奴との決戦前に手に入れたのであるが、おもちゃのような外見と裏腹に、非常に軽くて動きやすい上に、実にすばらしい防御力を持った鎧なのである。
自分も今まで数多くの鎧を手にしたが、例えば魔法攻撃をくらった時など他のものとは比べ物にならぬ程、受けるダメージが少なくて…」
一行は代わる代わるにそれぞれの武勇伝を語っていたが、いつの間にやらエーコの独壇場になっている。
見たこともない合金で作られたスタイナーご自慢の鎧に興味を示した、飛空艇及びメカマニアのシドやゼボルト機関長以下ヒルダガルデのメカニック達がスタイナーを囲んで、新種の素材がどうの、鎧に刻まれた魔法文字がどうのと議論しながら、スタイナー(の着ている鎧)を取り合うように押し合いへし合いしている様子は、端から見ていてかなり暑苦しい。
その場にいる全員がなにげに明後日の方向を向いて、美しいとお世辞にもいえない光景から目を逸らしているのも、無理なき事であろう。
このようにブリッジ内はかなりの盛り上がりを見せているので、フライヤが適当な頃合いを見つけてそっと抜け出した事にも、誰も気づいていなかった。


後部デッキには、飛空艇の位置を他者に知らせる為のカンテラが1つ、ぽつんとついている他には灯り1つとてないが、2つの月の光がほんのりと周囲を照らしているので歩くに困る事もない。
「良い風じゃ…ありがとうの」
フライヤのささやきに応えるように、そよ風が彼女の周りを戯れ、最後にふわりと頬を撫でて去っていく。
はるか遠方を透かしてみると、世界を厚く覆っていた霧は大分途切れて下方の大地や山が顔をのぞかせてているが、飛空艇団の周囲には今もなお濃い霧がある。
風を読み、友とするブルメシアの民であればこそ、竜騎士達の請願に応えた風の精霊が飛行に必要な霧を運び、航海を後押ししてくれている。
このまま追い風に乗っていけば、夜明けにはリンドブルムに到着する事だろう。
フライヤはもう1度風に向けて優しい目を向けると、そのままぺたん、と床に腰を下ろした。
そして壁に背を預け、夜空を見上げる。
「今宵はいい月夜じゃのう」
夜の闇は全ての生きとし生けるものに、眠りという名の安らぎと平穏をもたらす。星空を見上げる事さえ、戦いに心奪われていた時には忘れていた。
そんな事を考えていると、こちらへやって来るかすかな足音が聞こえた。
きびきびとした足音の主を見いだして、フライヤは硬直した。
「フラットレイ様!」
「君が外へ出るのを見かけたものだから。…少し話をしたいんだが、良いだろうか?」
突然のフラットレイの申し出に、フライヤは嬉しさの反面、激しい戸惑いを隠せない。
フライヤが面を伏せたままうなずくと、フラットレイは彼女の横に腰を下ろした。
「…しばらく前にパック殿から、私と君がかつて恋人同士であったと伺った。
私とパック殿がクレイラを辛くも脱出して、ようやく同胞達が安心して隠れ棲める地を見つけて後の事だ…」
どきん、とフライヤの心臓が跳ねた。
「先程から気になっていたのだが…何故、君は私に何も問おうとしない?
昔の事を思い出したのかと。
君や故国の事を忘れてしまった私を、何故一言も責めようとしないのだ?
……クレイラの時のように」
フラットレイが声を落とす。
どうして彼女は薄情な恋人の活躍をまるで我が事のようにして、あんなにも晴れやかで美しい笑顔を浮かべる事が出来るのだろう?
自分に向かって言いたい事は、どんなにかあるだろうに。
「―――問うたところで、フラットレイ様が苦しまれるだけでしょうから」
淡々とフライヤが答える。
違う。苦しくなるのは自分の方だ。
フラットレイの事を想えばこそ、たとえそれがどんな困難な旅であっても、足は前に進む事が出来た。
故郷を、クレイラを、想いの行き場さえなくした痛みと悲しみを、戦いに身を投じる事で我と我が身を奮い立たせ、心の奥に封印しようと必死に努めていた。
だが…今は…。
悲しみをすりかえる術すら持たぬ今、フラットレイの言葉を聞くのが怖い。
重苦しい沈黙を破るように、フラットレイが首を左右に振った。
「…いくら過去のことを思い出そうとしても、思い出せないのだ。今の私にある最初の記憶は、辺境の地にある小さな村からだ―――」


そこは周囲を高い峰々に囲まれ、1本の細い街道が唯一外界とを結ぶ、閉ざされた山奥の小さな村だった。
嵐の日の翌日、村のすぐ近くを流れる川に、全身にひどい怪我を負ったフラットレイが流れ着いたのだという。
己の名すら分からなくなっていた青年を村人は手厚く介抱してくれたが、その一方でこんな噂も囁かれていた。
川の水源にあたる霊山の奥深くに、異世界の神が封じられていると噂される古代遺跡がある。
青年に記憶がないのは、異界の神とも悪魔とも呼ばれるモノの怒りに触れ、呪いを受けたのだと。
あるいは遺跡に向かうその途中で嵐に巻き込まれ、険しく切り立った崖の1つから転落したのだとも。
彼が身を寄せていた村の神殿の神官はこう言った。
『たとえどんな経緯があったにせよ、生命に関わる重傷を負いながらもそなたが助かったのは、ひとえにそなたが身につけた竜珠のおかげであろう。その首飾りには、風の精霊の加護の他に、そなたの無事を願う祈りが込められておりまする』
竜珠とは、竜騎士が必ず身に帯びている首飾りあるいはアクセサリーで、魔力を帯びた宝石とそれを繋ぐ金属の鎖に、風の精霊との契約を綴った呪文が魔法で編み込まれている。
日常の厳しい鍛錬に加えて、竜珠があるからこそ、風の精霊は天高く飛翔し地上に向かって急降下する竜騎士に、目に見えない翼となって助力を与えてくれる。
フライヤは一言も口にしようとしなかったが、フラットレイが無意識に手をやった首に輝く竜珠は、彼がブルメシアを旅立つ際にフライヤが共にゆけぬのならせめてもと、竜騎士にとってはまごう事なき騎士の証であり、己が槍と同じかそれ以上に大切な物である自分の竜珠を渡したものだった。
「身体が良くなってから、自分が流れ着いたという川を遡り、件の古代遺跡に向かったが、不幸にも嵐による落雷の為か、遺跡は無数の岩の瓦礫に埋もれてしまっていた。あるいは遺跡に棲むと言われるその主が、眠りを破る侵入者を厭うて自らを大地の奥深く封印したのやも知れぬ。
…いずれにせよ、手がかりは何一つとてなく、私の手に残されたのはこの竜珠と、ただ1本の槍の感触のみ」
不思議な事に村を度々襲うモンスターと対峙した時、槍を振るう感覚だけは、その身から全く損なわれていなかったとフラットレイは語った。
「その後、私は再び旅に出る事にした。世界中を、己が名を探し求める為に」
孤独で、不安な旅だった。
ごくたまに淡い幻のように脳裏に浮かぶ記憶の断片も、思い出そうと意識を凝らしたとたん、霞のごとく霧散してしまう。
「子供の遊びで『いつ・どこで・誰が・何を・どうした』という単語をバラバラに組み合わせて、文章を作る遊びがあるだろう? 私の旅は、それと良く似たようなものだった。
“竜騎士”、“ブルメシア”。
旅の途中で見聞きした物を加えて、無意味に単語を並べていけば、いつかは無くした記憶に辿り着けるやもと、わずかな期待を抱きもしたが…結局は無駄な努力…。どれほど世界を彷徨おうとも、一切を思い出す事が出来なんだ。…君の事も。
―――すまない」
「…………!」
身じろぎもせず、フラットレイの言葉を聞いていたフライヤの手が、痛いほどに固く握りしめられる。
もしも記憶を失った時、自分の傍らに竜騎士の槍ではなく君がいたなら、君の事を忘れる事はなかったのやも知れぬな、と、これも沈痛な面持ちのフラットレイが自嘲気味につぶやいた。
とある街で偶然パック王子が彼を見つけたのは、行幸だった。
クレイラでの出来事の後で、竜騎士としての技を更に極める為、自分は恋人を置いてブルメシアを出奔したのだとパックから聞かされた。
もしも想い人と共に2人で旅立っていたなら、この美しい女性(ひと)をこれ程までに悲しませるような事はなかっただろうに。
「いいえ。いいえ、フラットレイ様。我ら一行の為…そしてブルメシアの為に、フラットレイ様は戦って下された。その一事だけでもこのフライヤ、嬉しゅうございます」
それもまた偽らざる気持ちだった。
フライヤの中にも流れる竜の魂を、フラットレイもまた、失ってはいなかった。
何よりも彼が追い求め続けた、その魂だけは決して…。
フライヤは今にも泣き出しそうな瞳をしながら、精一杯の笑顔を作る。
見つめている者の方が、心が悲しみに切り裂かれるような、とても寂しい淡い微笑み。
「『ただ道を極めんとする者は、いつしか同じ道を歩む者とあいまみえん』。
私はブルメシアやクレイラを滅ぼした奴らを追って、戦って、戦い続けて…。そして今、こうして再びフラットレイ様とお会いする事が出来ました。
だからもう良いのです。フライヤはそれで十分幸せです」
フラットレイが竜騎士としてブルメシアの復興を志すのであれば、2人の歩む道はこれからずっと1つなのだから。
そう、ただ竜騎士として生きてゆくのならば。
ぽろ、と大粒の涙がひとつぶ、エメラルドの瞳からこぼれ落ちた。
「フライヤ…」
フラットレイの青い瞳が、驚いたようにこちらを見つめている。
本当は、あの腕の中に今すぐにでも飛び込みたい。
けれど…。
想い焦がれた人が目の前にいるというのに、手を伸ばせばすぐに触れる所にいるというのに、彼我の距離がとてつもなく遠い物にフライヤには思えた。
ぽろぽろと、とめどもなく涙があふれて止まらない。
その時。
フラットレイの腕がフライヤをふわりと包んで、その胸に抱き寄せる。
「?!」
信じられなかった。
幾度となく夢見た、愛しい人の腕の中に再びこうしている事が。
自分はまたもや、朝の光と共に消えてしまう儚い夢の中にいるのだろうか?
「…泣くなフライヤ。…君が泣いていると、何故だか私の心臓が痛くなる。君には笑顔の方がはるかに似合っている」
女性を泣かせる事など、竜騎士には無論あるまじき行為である。けれどもフラットレイは、そんな騎士道からなどではなく、心の底からもう1度フライヤの笑顔を見たいと、ただそれだけを願っていた。
「頼む。過去をなくした私の為になど、泣かないでくれ」
怜悧な面に典雅な笑みを浮かべ、パック王子に膝を折るフライヤの瞳には、困難な戦いに勝利して帰還した竜騎士の、凛とした誇りが宿っていた。
その姿から、またパック王子が彼女に寄せる深い信頼が、フライヤが人並み優れた竜騎士である事を如実に物語っている。
―――その彼女が悲嘆の涙にくれているのは…全て私のせいか…。
フラットレイは何も思い出せない自分が歯がゆく、またフライヤの涙の原因となっている自分がひどく許せなかった。
そしてふいに、己の中のひどい自己嫌悪の正体を悟った。
「フライヤ、私は君が好きだ。
確かに私は、かつての君の事を知らない。けれど、今の君の笑顔を見た時から多分…」
君にもう1度恋をした。
フラットレイが耳元でそっと囁いた言葉に、背に回されたフライヤの両腕が、きつく彼の身体を抱きしめる。
「フラットレイ様…」
幸福に息も止まりそうだった。
フライヤは、フラットレイの肩にその白い頬を寄せる。
―――ああ、覚えている。
腕の中の細い身体のぬくもりが、フラットレイに不思議と懐かしい感覚を、おぼろに思い起こさせた。
彼はフライヤ愛用の帽子を取ると、声を立てずに泣き続ける彼女の月光を弾いて輝く銀の髪を優しく撫でる。
どれくらい時が過ぎたのか。
ようやくフライヤが涙を止めて落ち着きを取り戻すと、フラットレイが優しい表情でこちらを見つめている。思いもかけぬ涙を見られたフライヤは、顔を赤く染めると、慌ててフラットレイからその身を引き離した。
その時。
ぽう、と薄闇の中で、フラットレイの首にかけた竜珠が、かすかな光を放っていた。
「これは?!」
「…もしや…」
フライヤが淡く光る竜珠を手に取り、気を込めると竜珠が更に輝きを増す。
「…この竜珠は元々、私が竜騎士見習いの資格を得た際に国王陛下から賜ったもので、精霊との契約の呪文と私の名が魔法で編み込まれていました。
旅立たれるフラットレイ様にこれをお渡しする際に、ブルメシアで最も魔法に長けた風の大巫女様に呪文を編み直していただいたのですが、その時に大巫女様がお心遣い下さったのでしょう。
たとえこの身は離れていようとも、せめて心だけはフラットレイ様のお側にあるようにと」
旅の無事を祈る魔法がかけられた竜珠が、フライヤの手から再びフラットレイの手へと渡る。
「そうか…やはり君だったのか…」
なくした記憶を求めて世界を彷徨っていた時、この竜珠は、たとえ己が全てを忘れてしまっても、世界の全てが彼の存在を忘れ去ってしまったのではない事を示してくれる、唯一つのよすがだった。
見つからぬ過去よりも、今と未来に目を向け生きればいい。そう頭の中で考えても、深い孤独感は彼を責め苛む。そんな時、自分の身を案じてくれている誰かが世界のどこかにいるのだという事が、どれほど心の慰めになってくれた事か。
だからクレイラで見たフライヤの涙が、ひどく心に重く残って、彼はパックに問い正したのだった。
最初は頑として答えようとしなかったパックだったが、話が竜珠の事に及ぶに至って王子は不承不承、それの元の持ち主の名を教えてくれた。
『俺が過去を話したところで、おまえの気持ちをどうこうする事は出来ないだろうし、そんな権利も持ち合わせていない。全ておまえ次第だ。
だが肝に銘じておけ。フライヤをもう1度泣かせたり、これ以上の辛い思いをさせる事だけは、この俺が絶対に許さない』
パックはそう言って、怖いくらい真剣な眼差しで、フラットレイを見上げた―――
「フライヤ」
長いこと探してきたものが、今、腕の中にある。
「ありがとう、何もかも」
フラットレイは万感の思いを込めて、未だ闇の彼方にある見えない過去の全てに向かって、心からの感謝を述べた。
「…………!」
長く辛かった5年もの旅の全てが、フラットレイのその一言で報われたような気がした。
フライヤはえもいわれぬ美しい笑顔を浮かべた…が、胸の内に去来した旅の間の様々な想いが、堰を切ったように奔流となってあふれ出し、フライヤは今度こそ思い切り声を上げて泣いてしまった。
「…すみませぬ…泣いてはならぬと思うに、涙の方が勝手にあふれて…」
フラットレイは静かに首を横に振るとフライヤを胸元に抱き寄せ、辛く悲しい思い出の涙の全てを受け止めるかのように、彼女の身体をきつく抱きしめる。
―――ああ、また泣かせてしまった。パック殿が知ったら、何と言われるか。
手ひどい罰を覚悟するフラットレイの表情は、この上なく優しい笑みを湛えてフライヤを見下ろしている。
何も言わずひしと抱きしめてくれるフラットレイの腕のぬくもりに包まれているうちに、悲しい思い出は涙の1粒1粒となって溶けて、流れていく。
フライヤの嗚咽は風に運ばれ、夜の中へと消えていった。



−Fin−





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